تسجيل الدخول初めての恋人だった。
俊也。
彼と出会ったのは、裏方で走り回っていた劇場。
出会った時の彼は、劇場のアルバイトをする大学生だった。
優しくて、真面目で、いつも舞台を見に来てくれた。客席のいちばん後ろから、端役の自分に盛大に拍手をしてくれる人。
付き合い始めて五年。結婚しよう、と言われた。
それが三年まえ。一緒に地方の実家に来てほしい、
劇団をやめて、一緒に家業をやってくれないか、と。その時は答えられなかった。
家族中が反対するなか、乏しい年金をこっそり送って応援してくれる祖母の顔が浮かんだ。
ここまでやって来たのに。
まだ、何もできていないのに。そう思うと、舞台を捨てることができなかった。
でも、彼のことを嫌いになったわけでもなかった。何度も話し合って、何度も泣いて、最後は彼の背中を見送った。
いつか、演劇の世界で名を売ることができれば、きっとこの日の決断も良い思い出になるとそう信じて。
だから、若い団員が少しずつ諦めて劇団を辞めていく中で、自分だけは最後まで残ってやろう、とそう思っていた。
今年の初め、祖母が亡くなるまでは。
いつも最後に「実家に帰って来なさい」という説教になる母の電話。
だから、母からの着信は気づかないふりをすることも多かった。その日は公演間近の大事な稽古が入っていて、携帯は鞄の奥にしまったまま。
朝から鳴りっぱなしなのは気づいていたが、あえて見なかった。
だから、メッセージを見て折り返したときには、もう遅かったのだ。ずっと応援してくれていた祖母の死に目に、会えなかった。
それを知ったとき、胸の中で何かが静かに切れた。
大切な物を全部無くして、自分が何を得たかったのかわからなくなった。
劇団をやめ。
アルバイトを整理し。都心から離れた町で、事務職に就いた。
明日から、その仕事が始まる。
そのために、未琴はこの二〇六号室へ引っ越してきた。
部屋の隅には、まだ開けていない段ボール箱が三つ。
ひとつには服。
ひとつには食器や調理器具。 もうひとつには、捨てられなかった台本と舞台写真が入っている。本当は、全部処分するつもりだった。
でもできなかった。
祖母が買ってくれた舞台用の服も、まだ箱の中にある。
暗い部屋の隅でそれらの段ボールがうっすらと見えた。
ぱち、ぱち、ぱち。
拍手はまだ続いていた。
未琴は布団の中で、ゆっくりと身体を起こした。
壁の向こうに向かって耳を澄ます。
拍手の前に、音がした。
こつ。
床を踏むような音。
ぎい。
古い椅子を引くような音。
それから、すう、と息を吸う音。
誰かがそこに立っている。
そんな気配がした。
そしてまた、拍手。
ぱち、ぱち、ぱち。
「……うるさい」
未琴は小さく言った。
明日から新しい仕事が始まるのだ。
ちゃんと眠らなければならない。 ちゃんと起きなければならない。 ちゃんと社会人の顔をして、職場に行かなければならない。未琴は布団をはねのけ、壁の前に立った。
薄い壁紙の向こうで、拍手は淡々と続いている。
怒鳴る勇気はなかった。
まだ初日だ。 隣人ともめるのは避けたい。だから、指の関節で壁を軽く叩いた。
とん、とん。
拍手が止まった。
未琴は息を吐いた。
やはり隣の住人だったのだ。気づいてくれたのなら、それでいい。
そう思って布団へ戻ろうとしたとき。
ぱち。
壁の向こうで、ひとつだけ手が鳴った。
未琴の背中が強張る。
ぱち、ぱち、ぱち。
さっきよりも、ほんの少し近い。
拍手がまた始まった。
「やめてよ……」
未琴はもう一度壁を叩こうと手を上げた。
そのとき、拍手の合間に、かすかな音が混じった。
笑い声?
ただ、息が漏れたような、喉の奥で何かをこらえたような音。
未琴は手を下ろした。
それ以上、壁に触れる気になれなかった。
布団に戻り、頭から毛布をかぶる。
拍手は布越しにも聞こえた。ぱち、ぱち、ぱち。
規則正しくはない。
けれど止まらない。未琴は耳を塞いだ。
それでも音は消えなかった。いつ眠ったのかは覚えていない。
朝、携帯のアラームの音で目を覚ましたとき、喉がひどく乾いていた。
カーテンの隙間から、白っぽい朝の光が差し込んでいる。
冷蔵庫は変わらず唸っていた。
上階から、誰かが階段を下りる音が聞こえた。夜中の拍手が夢だったのか現実だったのか、すぐには判断できなかった。
未琴は重い身体を起こし、顔を洗った。
鏡の中の自分は、予想よりずっと疲れて見えた。二十九歳。
舞台では若い役を演じるには遅く、母親役をするほどには貫禄が無い、と言われた。
現実でも、似たようなものだった。
何かを始めるには遅く、何かを諦めるには早い。
そんな中途半端な年齢。
未琴は薄くファンデーションを伸ばし、髪をひとつにまとめた。
買ったばかりのブラウスに袖を通す。
劇団時代には着なかった服だ。玄関を出る前に、ふと隣のドアを見た。
二〇七
銀色のプレートに、黒い数字が貼られている。
昨夜、あれほど拍手が聞こえた部屋。
だが、ドアの前に生活の気配はなかった。
表札もない。ドアについた郵便受けには、茶色く変色したビニールテープが何重にも貼られていた。
隙間を完全に塞ぐように、上から下までぴったりと。チラシも、郵便物も、何ひとつ入れられないように。
未琴は思わず足を止めた。
古いテープだった。
最近貼られたものではない。 端がめくれ、埃がついている。未琴は隣室のドアから目を離せなかった。
そのとき、マンションの廊下の奥から風が吹いた。
非常階段のドアが、どこかで小さく軋む。
ぎい。
昨夜聞いた、椅子を引く音に似ていた。
未琴は鞄を握り直し、逃げるように廊下を歩き出した。
初出勤の日だ。
遅れるわけにはいかない。考えすぎだ。
疲れているだけだ。 引っ越しの夜に、眠りが浅かっただけだ。そう自分に言い聞かせながら、未琴は階段を下りた。
背後で、音がした。
ぱち。
たった一度だけ。
ハッとして振り向くと、通路の手すりについた『入居者募集』のプレートが風でこすれて、あたる音だった。
――もしかしたら昨日の音もコレだったのかも
自分がひどく神経質になっているのを自覚して、小さく息を吐いた。
「おかえり、未琴」帰宅すると、俊也が優しく肩からバッグを下ろしてくれる。「ただいま!今日はね、何もかもがすごく上手くいったわ」そう抱きついて俊也に告げると、そっと頬にキスが返ってきた。「そうだと思った。すごくご機嫌だからね」「んふふふ」「そんな未琴に、素敵なお客さんが来てるよ」俊也がそっと顔を覗き込んで嬉しそうに言う。「お客さん? 誰?」奥のダイニングの椅子に誰かがいる気配がある。俊也に手を取られてそっちに向かう。「おばあちゃん!」ダイニングの椅子に座っていたのは、役者になる夢を最初から応援してくれていた未琴の祖母だった。「未琴。お仕事お疲れさま。久しぶりね」思わず座っている祖母にかけより、強く抱きしめた。「あらあらあら。さすが、演技派さんは再会の挨拶もドラマチックねぇ」優しい声で祖母が背中をポンポンと叩く。背後で、ぱちぱちぱちぱち、という小さな拍手とともにすすり泣きが聞こえる。「おばあちゃん。会いたかったの」「私も未琴に会いたかったよ。すごくがんばってるんだねぇ」小さい頃にしてくれたように、祖母が優しく頭を撫でてくれる。「おばあちゃん、ありがとう。ずっと、応援しててくれてありがとう」この言葉を祖母にずっと伝えたかった。自分のやることを何一つ否定せず『大丈夫、未琴ならできるよ』『すごいね、未琴は天才だね』といつだって温かい言葉を与え続けてくれた、唯一の人。「あたりまえだよ。私は未琴のファン1号だからね」そう言って白髪交じりの眉が優しく下がる。その顔を見ていると、思わず涙が溢れた。「おばあちゃん。大好き!」未琴は、涙を流しながら子どものように祖母にすがりついて叫んだ。「よしよし。いくつになっても、やっぱり可愛い未琴ちゃんだね」そう言って頭を撫でてくれる優しい手に、少しも涙がおさまらなかった。未琴は、割れんばかりの拍手と、涙混じりの「素晴らしい!」「なんて感動的なの」という呟き声に包まれ、満足感で胸を一杯にして祖母を抱きしめ続けた。祖母との再会で気持ちが浮き立っている。ずっと言えなかった「ありがとう」を伝えることができた。なんて幸せなんだろう。なんだか、ずっと心の重しになっていた何かが、スポンと外れて体の中を綺麗な空気が淀みなく流れていっているようだった。職場に着くと、いつものように自分の席でPCを
「ね、何あれ。どうしたの?」ちょうど11時を回った頃、給湯室に女子社員が数名集まっていた。「何、あのばっちりメイク。どうしたいわけ?」ちょうど、未琴がそこを通りかかった時に、そんな会話が聞こえて来た。「でもさ、昨日までは電話のメモ取るのもやっとって感じだったのに、やたらよく通る声で対応してるし。マジで何があったんだってレベル」確かに今朝は、すっきりした頭で仕事も冷静に片づけられている。自分の陰口を言っているのはわかっているが、むしろその妬みが誉め言葉のように耳に響いて思わず口元が弓なりになってしまう。盛り上がっている彼女たちに、もう少し見せ場を作ってあげたくなった。さも偶然通りかかったように、ゆっくりと給湯室の入り口を横切り、一番端にいる女性と目を合わせる。相手が目を見開いてはっとした表情を浮かべた後、他の2人に気まずそうに目線をやった。「お疲れさまです」ことさらに明るい声で、笑みを浮かべて彼女たちに挨拶をする。ぺこりと軽く頭を下げた後、何食わぬ顔でそこを通り過ぎた。「ちょっと――」しばらくの沈黙のあと、さらに給湯室は盛り上がっているようだ。好きに言わせておけばいい。その方がこの先の展開が面白くなるだろうし。後ろ手を組んで軽い足取りで、自分のデスクへと戻ることにした。その足取りに合わせるように、称えるように、ぱちぱちぱちぱち、とどこかから拍手が聞こえた。「聞いたよ。今日は、若手に見せ場を作ってあげたって?」部屋に帰ると、俊也がお帰りと迎えてくれる。「未琴のアドリブは、いつだっていい展開作るよね」「そんな大したことしてないけどね」ふふっと照れ笑いをする。「自然体でそういうことができるのが、未琴の才能なんだろうな」「才能だなんて大袈裟な」そう言って彼の手をトントンと叩くと、「謙虚な大御所だなぁ」と返ってくる。どこかから、笑い声とともに、ぱちぱちぱち、と拍手が聞こえる。なんて幸せで充実した毎日だろう。◇◇◇「相沢さん。最近、仕事をがんばってくれているのはわかるんだけど……無理していないかしら」指導係の先輩が、キーボードに向かう未琴に声をかけた。仕事に邁進する新入社員。少し頑張りすぎるくらいが、同期の中で目立つというものだ。「あなた、もともとすごく華奢ではあったけど……その、おせっかいなようだけど、凄く痩
どのくらいぼんやりと座り込んでいたのだろうか。真っ暗な部屋に響くインターホンの音に、はっと我に返る。電気もつけず静かに玄関まで進み、そっと覗き窓に目を当てる。扉の向こうには、思いもかけない人物が立っていた。「しゅん……や?」魚眼レンズのように歪んだガラスの向こうに、別れたはずの俊也が立っていた。――どうして?驚いてすぐに扉を開ける。「なんで……いるの?」その言葉に、俊也は一瞬目を丸くしたあと、ふっと笑った。「そりゃ、なんでって。未琴の家は俺の家だからね」「え?」驚く私を背の高い彼が、脇を抱えてヒョイと抱き上げた。「未琴。どうしたの? 新しい仕事で何か嫌なことでもあった?」心配そうに顔を覗き込むその表情は、昔と変わらない。「どうした、どうした? また、監督に無茶ぶりでもされたの?」「監督って……?」「今日から新しい舞台の打ち合わせだっただろ?」「新しい舞台?」未琴は呆けたように、俊也の言うことをただただ繰り返す。そんな未琴を、俊也は困った顔で笑いながら見下ろしていた「相当お疲れだね。よーし、ここは、最古参のファンとして、未琴を癒すことに専念しよう」ソファに下ろされると、俊也は未琴の足を太ももの上に載せ、優しく揉み始めた。「痛かったら言って。女優の足に痣を作ったなんてことになったら、大変だから」そうだ、いつだって俊也は、稽古を終えて帰ると、痛む足や腰を揉んでくれた。こんな風に。「俊也。いつもありがとう」その言葉に、俊也がぷっと吹き出す。「なんだよ。随分、殊勝だな。いつもなら、“ファン冥利に尽きるでしょ?”とか生意気言うくせに」「そんな……私、こんなことして貰えるような立場じゃないのに。ごめんね」いつだって後悔しない日は無かった。どうして彼について行かなかったのか、何にしがみついていいたのか。「おいおい。泣いてんのか?そんなに今日は辛かったのか?」「どうして……こんなに優しくしてくれるの?」ふくらはぎを優しく揉む手が止まる。そして、その手が未琴の頬を優しく撫でた。「俺は、未琴にいつだって優しくしていたいんだよ。だから泣かないで」未琴は、頬に触れる手の上に自分の手を重ねた。「なんだか、長い間、すごく嫌な夢を見ていたみたい」そう微笑みかけると、俊也も笑みを反し、再び心地よい強さでふくらはぎを揉み始めた
午前中、何度も入力を間違えた。昼前には、教育係の女性が隣の席の人に小声で何かを言っているのが聞こえた。「ちょっと厳しいわ。さすがの私もーー」ため息混じりのその言葉が、胸に突き刺さる。昼休み、未琴は会社の外へ出た。コンビニで買ったサンドイッチを袋に入れたまま、近くの公園のベンチに座る。食欲はなかった。携帯を取り出し、管理会社の番号を検索した。苦情を言わなければならない。もう限界だ。けれど、電話で説明できる気がしなかった。隣室から毎晩拍手が聞こえます。録音したら拍手は入っていません。録音には何か怪しい声が入っていました。朝起きたら、部屋が楽屋のようになっていました。そんなことを言えば、こちらがおかしいと思われる。未琴は、携帯を握ったまま、じっとその画面を見つめていた。その日、定時になるとすぐ会社を出て、アパートを管理している不動産会社へ寄った。ガラス扉の向こうに、物件情報の紙が何枚も貼られている。あの部屋は、通りがかったこの貼り紙の中から見つけたものだ。カウンターには、内見のときに対応してくれた男性とは別の、四十代くらいの女性が座っていた。「すみません。宵鳴アパートの二〇六号室に入居した相沢なんですが.......」「ああ、はい。どうされました?」女性はにこやかに腰を上げた。「隣の部屋のことで、少し」「ちょっとお待ちくださいねー」と言いながら、女性はパソコンのキーボードを叩く。「お隣というと......二〇七号室ですか?」「はい。夜中に音がするんです。拍手みたいな音が。毎晩、すごく遅い時間に」口に出した瞬間、自分でも奇妙な話だと思った。女性の笑顔が、ほんの少し固まった。「拍手、ですか」「はい。ここ数日は、かなり音が大きくて」「テレビとかではなく?」「たぶん。で、お隣は、郵便受けが塞がれてて、苦情の手紙を入れることもできなくて」女性は手元のパソコンに目を落とした。何かを確認しているようだった。未琴は胸の前で鞄を抱えた。「あの、隣の方に注意していただけますか? 私も仕事が始まったばかりで、眠れないのは困るので」女性は、すぐには答えなかった。パソコンの画面を見つめたまま、唇を一度引き結ぶ。それから、ゆっくり未琴を見た。「相沢さん」「はい」「二〇七号室は、ずっと|空室《くうしつ
その夜、未琴は、まんじりともせず起きていた。このままではどうかしてしまう。管理会社に、隣室の件を相談しよう。そう思い立った。 苦情を入れるためには、証拠がいる。隣の郵便受けは塞がれていて、深夜の騒音を控えて欲しい、という手紙も入れられない。直接ドアを叩いてお願いすると言っても、どのような人が出てくるかわからないから、恐ろしい。 今朝も『隣人トラブルで駐車場で故意にひき逃げか』などと言う、物騒なニュースを見たばかりだった。直接会わずに穏便に済ますには、管理会社を通すしかない。 まずは、深夜の騒音を録音しなくては。未琴は、携帯の録音アプリを起動し、隣室との壁に近い床へ置いた。時刻は午前二時。部屋の電気は消さなかった。 壁際に膝を抱えて座り、時計を見つめる。二時十分。冷蔵庫の音が一瞬止まった。 それだけで、部屋の空気が急に薄くなったように感じる。二時十二分。こつ。床を踏む音がした。未琴は携帯に目を落とす。 録音を開始する。ぎい。椅子を引く音。すう。誰かが息を吸う音。ばくばくと心臓が体を揺らし、未琴の背筋に冷たいものが這い上がった。二時十七分。拍手が起こった。ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。それはもう、一人や三人の音ではなかった。 小さな劇場の客席が、壁の向こうに詰め込まれているような音だった。未琴は思わず両耳を塞いだ。それでも聞こえる。 手のひらで耳を押さえても、拍手は消えない。 まるでそれは自分の頭の中から発せられているようだ。笑い声も混じっていた。 咳払いのような音も聞こえた。 誰かが椅子に座り直す、ぎし、という軋みも。「うるさい……」未琴は小さく呟いた。「うるさい、うるさい、うるさい……」壁の向こうから一番聞きたくない音が聞こえる。壁を叩きたい。 怒鳴りたい。 いますぐ隣へ行って、何をしているのか確かめたい。でも、身体が動かなかった。拍手は三分ほど続き やがて、唐突に止まった。音が消えたあとの部屋は、異様なほど静かだった。 冷蔵庫も、配管も、上階の床鳴りも、何も聞こえない。まるで、世界から隔絶されて、たった一人この部屋でスポットライトを浴びているような。 そんな感覚。はっと我に返ると、かなりぼんやりしていたようだ。震える手で携帯を取り、録
その夜。ぱち、ぱち、ぱち。未琴は目を開けた。まただ。昨夜と同じ音。 同じ時刻。 同じ、乾いた拍手。ただし、昨夜とは少し違っていた。音が重なり複数になっている。ぱち、ぱち、ぱち。少しずれて、音が重なる。ぱちぱち。さらにもうひとつ、ふたつ。ぱち、ぱち、ぱち。三つ......三人の拍手?未琴は布団の中で身体を硬くした。「……やめて」声は届かない。拍手は壁の向こうから続いている。未琴は起き上がり、壁の前まで行った。 叩くべきか迷った。 できれば隣人とトラブルは起こしたくない。けれど、このままでは眠れない。とん、とん。昨日と同じように、指の関節で壁を叩いた。拍手は止まった。未琴は息を詰めて待つ。一秒。 二秒。 三秒。ぱち。ひとつ、鳴った。続いて、ぱち、ぱち、ぱち、と三つの拍手が重なった。未琴はそれ以上壁を叩けなかった。◇◇◇翌日も、仕事はうまくいかなかった。電話を取り次ぐ相手を間違えた。 注文書の数量を一桁見落とした。 入力途中のデータを保存せずに閉じてしまった。教育係の女性は、だんだん言葉少なになった。「相沢さん、昨日も言いましたよね」 「すみません」 「メモ、取ってます?」 「取っています」 「じゃあ、見返してください」 「はい」未琴は机の上のメモ帳を見た。 文字はぎっしり並んでいる。 けれど、どこに何が書いてあるのか、自分でもわからなかった。眠い。 頭が痛い。 身体の奥に鉛が詰まっているようだった。夜が怖かった。けれど、朝も昼も楽ではなかった。三日目の夜、例の音の数はさらに増えていた。ぱちぱちぱちぱち。乾いた音が重なり合って、まるで壁の向こうで大勢がこちらを見ているような気にすらなった。布団をかぶり。 耳栓も買い。 それでも音は聞こえた。ぱちぱちぱちぱち。音は耳から入ってくるのではなく、壁や床や天井を伝って、骨の内側に響いてくるようだった。四日目。 五日目。 六日目。拍手は、日に日に大きくなった。未琴は仕事中に何度もぼんやりした。コピー機の前で立ったまま、何を印刷しようとしていたのか忘れた。電話の相手に「お世話になっております」と言うつもりで、「ご来場ありがとうございます」と言ってしまった。